快楽の頂点を極める時、多くの人は、その感覚に埋もれるように
まぶたを閉じていることが多いと思います。
その様子をしっかりと見届けようと見つめていると、
うっすらと開いたまぶたの間から覗く瞳が、しっかりとこちらの
視線を受け止めた途端、さらに深い快楽を得ていくのが、
手にとるように解ることがあります。
「見つめる」ことが、ただ「見る」という行為との違いは、
なんなのでしょうか。
抑えつけられ、追い詰められ、登りつめていく、その様子を
捉える視線には、その対象に向けた想いがつまっていて、
それを感じ取ることで、さらに深い快楽をもたらす・・・
ということなのでしょうか。
「視線の力」を感じる力 から引用
ただ網膜に何かが写っているだけでは「視線」は生じない。見る、というより自分の意識とその意識を振り向けた対象物を結ぶものが視線なのだ。
意識を振り向けることと、意識を振り向けられること。そのやりとりをコミュニケーションと呼ぶのだろう。
本文は、マスメディアのあり方についてのコラムですが、
意識を持つことこそが、視線に力を与えるという考え方は
漠然としていた「視線」というものをとてもうまく言い当てて
いるように思います。
勝手流に言い換えれば「自分の嗜好とその嗜好を振り向けた対象物を
結ぶもの」、本能的に沸き起こる性的な興奮が、視線に力を与え影響を
及ぼすとでもいうのでしょうか。
「見つめる」という動作にどれほどの力が秘められているのか。
はかり知れないものがあるのです。