導く先を考えながら、少しづつ、自分の嗜好に近づけていくことは、一朝一夕では成し得ないもの。
理解を深め、感性を共有し、時にはその境界線上で理解できない状況にもなり
時と機会の積み重ねを、超えていけた時にこそ、その先にある一体感を会得できる。
そんな思いをもって過ごしています。
行為は理解を深めるひとつの方法ではありますが、あくまで氷山の一角。
水面下に隠れた部分の大きさを意識することが、また、行為そのものをより深く、受け入れ、縛り付け、無二のものにさせるのです。
望んでいるのは、そういう土台の上に成り立つ行為、その蓄積を表現するための行為なのですね。
例えば・・・
指先のほんのわずかな反応も逃すまいと、悦びを表現しようとする身体を
締め付ける縄の軋む音に、もれる吐息の強弱に、五感を集中させながら、
ささやきかける言葉を選び、力を込め、味わう…
責めを受け入れ、自らの快楽に溺れないよう堪えながら、それでいて
着実に登り詰めていく様子を、冷静にとらえる視線。
やがて、すべてを解き放ち、生々しい本能をそのままさらし、欲し、求める目の当たりする時、それまでの時が、確実に、そこに集約されているものなのです。
一方的に与えるだけで、スイッチを入れまくって、服従させるという方法もあるでしょう。
僕は、与え、その反応を咀嚼しながら、だんだんと積み上げられていく感情、感覚の蓄積があってこそ、たった一言の言葉や、ふとした想像でさえ、そのスイッチを形作り、ONにすることができるのだと思います。
あたかも、最初からそこにただ、ふれればオンになるスイッチがあったのではなく
すべての時間がそこに集約されているからこそのスイッチ。
そういうスイッチは、他人には絶対見つけることができないもので、僕だけのものになるのだと。