よく思うのですが、加虐的な言動で快楽を得る嗜好と、被虐的な情況を欲する嗜好は、実はプラスとマイナスといった対峙しあうものではないんだろうなと。
自らの嗜好、考えを持ち、それを突き詰めていくという点では、
対峙するというより、同志ともいえるのではないかと思ったり・・・・
斎藤綾子と伏見憲明のおふたりが、性的な話題について談義する「快楽の技術」で、伏見氏は、SとMは同じ輪の上を反対方向に回っているようなものだと語っています。まったく逆の方向を向いているようでも、どこかで交わる点があると。
お二人はそれぞれの世界をしっかりもっていらっしゃる。だからこそこういう対談が成立するし、方向性が異なっていても、その考えを伝えることができ、またそれぞれぞの世界を豊かにしていくことに繋がるのでしょうね。
そもそも、嗜好が非常に個人的なものだとすれば、他の人にそのよりどころを求めるのではなく、自らのうちに秘めたものを突き詰めないと、ただ流されるだけになってしまうのだろうなと、実感した次第です。
ああ、精進しなくては(笑
素早いコメントありがとうございます。
一体何に精進されるのか・・・・謎ですね。
今後ともどうぞよろしくです。