嗜好を表す言葉は
それこそ星の数ほどある
言葉が嗜好を表すのではなくて
嗜好を表すために使う手段の一つが
言葉なのだろう
ただ見つめる
形あるものを見るということではなく
皮膚の下でうごめく感覚
視線で追い込んでいく
それまで知覚できなかった感覚を意識する瞬間をとらえ、
意識したことで精神的、肉体的に沸き起こる反応を見届ける
未知の感覚、言葉で説明できないはずの感覚を
表現しようと身悶える姿
印象や先入観に支えられたイメージの再現は
受け入れない
与えられ、受け入れ、反応する
それぞれの状態が満たされ、あふれ、
移り変わっていくさま
意識的な所作が取り払われ
ただ感覚に突き動かされはじめる時
その感覚を共有することができるのだ
視線でも、態度でも、所作でも、
言葉でも、生理的な反応でも
その伝達手段は、もはや無関係なのだ
コメントありがとうございます。
こんなことを考えたきっかけは、
例えば、「痒い」という感覚を、最初に
「痒い」と言葉にしたとき、どんなことが
起こっていたのだろ。
「痒い」という言葉を初めて聞いた人が、
その言葉が表す感覚を、どうやって
知りえたのだろう?
というたわいも無いものでした。
その後、つらつらと考えてみた挙句の果てに
こんなエントリになったわけです。
共通の認識を得る記号としての言葉も
非常に内面的で、言葉にしたとたんに
違和感を感じてしまうような感覚も
自分という個人の中では、それなりの
折り合いをもって同居していて、
その変換の過程は、それこそ無数の
道筋があるのでしょうね。
今後ともどうぞよろしくお願いします。