歩いていないと見えなものも、立ち止まっているからこそ見えるもの。
求めているものがどこにあるのか、どうやったら手に入れることができるのか。それぞれのやり方があると思います。
一人で勝手きままに歩くのではなく、立ち止まっていた人を歩みださせたい。
こういう想いにとらわれたことはありませんか?
さまざまな経緯や過去の歴史の中で、強く押さえ付けられた感情や想いを開放することは、とても難しいいことです。
解放したものを受け止めえるということを、しっかりと伝え、その範疇においてはすべてを掌握され、支配され、従わざるを得ないという気持ちに染め抜かれているということを、骨身に染み込むくらいに実感できない限りは、そうそうできることではありません。
こういった状況を、物理的にせよ、精神的にせよ、見えるものとして、提示し続けること。これが最近の僕のテーマであり、歩くという行為そのものになるのだと思います。l
支配と服従という関係は、強制するものではないという自論は、まだまだ青くさいものかもしれません・・・
べったりと淡色で塗りつぶすのではなく、細かいモザイクのように、
一瞬一瞬の嗜好の発露を見逃さず、掬い取る。
光輝くそのモザイクは、2つとして同じものがないのですから。