アルさんの
Pink Collarのエントリ「たじたじ」からトラックバック
自信のない私、
成長しない私、
萎縮する私を、
責められているように感じてしまう。
多くは、主が何を期待しているのか・・・・という不安があるものなのですね。
アルさんのこのエントリは、それを、とても繊細に表現していて。
主従というものは、一方通行的な関係に捉えられがちですが、
僕はそうは思えません。
アルさんのエントリを読んで考えたこと。
与える者と与えられる者、とういう形に置き換えて考えてみれば・・・
与えられる者(従者)は、自分がある一定の期待に応えられないのではないか、与えられたものは自分にとって不相応なものではないか、などの不安を持っているもので、それを負い目にすら感じたり、することがあるのですね。
その思いは、主者(与えるもの)に対する強い思いの裏返しであり、与えたいという思い
主者(与えるもの)からすれば、確かに、従者に対して、実現可能な行為や考えることを課し、それに応えることを求めることは多々あります。期待もするでしょう。
しかし、その応えは、従者ができる方法、表現でしか、返せないこともまた、よくわかっているのです。応えたい・・・という気持ちがありさえすれば、実際の結果はともかく、それは分かるもの、伝わるはずです。どんな課題を課そうとも、応えたいという気持ちに押しつぶされることを望んでいるのでは、ないのです。悩み、不安にさいなまれること自体が応えだということもあるのです。返ってくるものが望んだものでなくても、従者が意図した効果を得られなくても、いい、なんにせよ返ってくればいいのです。
与えることと与えられること。何かを返すとき・・・従者は主者でもあるのだと思います。
「アルはアルのままでいいよ」
呪文のように御主人様に言って頂かないと、
自信の持てない私。
アルさんの主さんは、アルさんが、自信が持てないことを含めて、
すべてを受け止めていらっしゃるのだろうと思います。
■追伸
与える側の立場であっても、自らが、この人を導くに足りているのかという想いにさいなまれることもあるものなのですよ。(当社比:(笑))
素敵な記事でTBしてくださって、ありがとうございました。
ウチにコメント残してくださらなかったので、お邪魔していいものかどうか、
少し迷いましたけれど、
頷くところも多かったので、足跡残させて頂くことにしました。
>その応えは、従者ができる方法、表現でしか、返せないこともまた、よくわかっているのです
きっと、そうなのだろう、と、
主は私の技量を知った上で、私が乗り越えられるだけのものを見極めて課しているだろうと、
それは漠然と感じるのですけれど、確信があったわけでもないので、
こうして別の方の言葉として拝見すると安心するものですね^^
もちろん、そこに胡坐を掻くつもりはないのですけれどね。
主というものの大きさを、再確認するようなエントリーです。
私の稚拙な記事からこのような素敵な記事を起こしてくださって、感謝、です。