交わされる視線について、思わず反応したくなるエントリがありました。
sizukuさんのlove.logから、
無表情からトラックバック。
彼はときどき「その目」を見せる。
私の知る限り、私の周りに、あんな目をする人間は他には居ない。
それは「完全なる無表情」・・。
目線について、自分でも一体何が表現したいのか
核心にふれることができないままのような気がしていますが。
自分にとって視線というもの。そこにあるのは、間違いのですが。
自分自身のことで言えば、見つめるという行為は、従者が高まっていく様子を見て取り、どこに導くかを考えることは、所有し支配していること実感させます。結果を計算し、またあるときは本能のままに、従者の中で、どんな作用・反応が起こっているかを見極めたいと思っているのです。
私はきっと、彼の「あの目」に嵌ったのだろう。
私は彼の、あの目、あの無表情に、興奮する。。
従者が、じっと閉じた目をふと開いた時、その視線を見出し、見出したことで、さらに高まって行く様子。見て取られることを、あからさまに意識することが、従者が従者たることを深く意識する瞬間でもあるのではないかと思います。
無表情が拒絶という意味ではなく。様々なコミュニケーションの手法のひとつであり、つながりを実感させるひとつの表現なのだろうなと。
彼の「あの目」で説かれたら、
きっとそれが相対性理論でも、私はイけると思う。
・・彼自身が気づいているかは、わからない。
きっと気づかれていると思いますが。どうでしょうか^^
丁寧なコメントありがとうございます。
|心底「あの目」は何なんだろう、と思います。
そうでしたか。意識していようが、無意識であろうが、相互が影響しあってのこと。
そもそも、説明することすらできないものなのかもしれませんね。
(決して面白半分ではなく)とても興味深いです。
今後ともよろしくお願いします。